PARC TOPオルタオルタ2008年7・8月号



もうたくさんだ! VOL.1


文=鶴見 済


 連載の一回目は自己紹介も兼ねつつ、今時の「自由」や「安定」や「生存」について考えたい。

 よりいい学校に進み、卒業と同時によりいい会社に入り、その会社でよりいい役職に就く。一生を「会社人間」あるいは「会社の奴隷」として生きる。それが、一九六四年に東京で生まれた自分にとって当たり前の人生だった。大学検定試験もなかった小中高時代、その人生のレールから降りることは、世の中的に許されていなかったようなものだ。

 精神に障害を来たしてまで大学受験にはまった結果、八四年の大学入学と同時に精神科に通いだした。バブル経済時代は消費とネアカ(根が明るい性格)がもてはやされる悲惨な時代で、しかも精神科など今のように気軽に行ける場所ではなく、そのことは誰にも言わなかった。パンク・ロックがあってくれたおかげで、何とか開き直って生きていけた。

 八九年に大学を卒業して、とある大きなメーカーに就職した。新入社員研修で企業人としてのあり方や社外での酒の飲み方まで教え込まれた後、自分の希望とは一切関係なく地方の工場のラインに配属された。すでに経営的に火の車だったその工場に通い、残業して帰ったら寝るだけという日々を送っていると、確かに会社のことしか考えられなくなってくる。なるほどこれが会社人間というものか、と思った。安定剤や抗うつ剤を、こっそり工場の便所で飲んで日々をしのいだ。結局、工場の人たちには申し訳なかったが、一年足らずで思い切って辞めた。

 その後、名ばかりのフリーライターになった。自由だとは言っても、仕事を取ってくるだけで大変すぎてヘトヘトだった。それでも、また会社に戻りたいとは思えない。将来像などまるで見えないことも、段々どうでもよくなってきた。もう生きるのに疲れてきたのだ。

 そんななかで九三年に、なんとか『完全自殺マニュアル』という本を出すことができた。レールの上も下もキツかったが、その前書きにはやはり「レールにしがみつく人生」の苦しさを書いた。こんな人生を頑張って生きていくことなどもうゴメンだ、このレールからまさに“命がけ”で降りてもいいんだという意味合いの本でもあった。

 「死んだほうがマシ」と思いながら、わずかばかりの生きる喜びも希望もなく生きていくだけなのだとしたら、生きることが死ぬことよりもいいという理由は、少なくとも本人にはわからない。それでもこの国では、自殺は単に「いけないこと」、自殺した人は「心の弱い人」と扱われ、死にたいなどと言えば「強く生きろ!」という叱咤が飛んできた。それは「レールにしがみつけ」というニュアンスも帯びていた。それに反対するために、「個人の自由」を自分なりに突き詰めた形でぶつけたつもりでもある。



 終身雇用と年功序列は、生涯にわたって個人を会社に縛りつけ、私生活まで面倒をみる「日本的経営」の形だった。そして学校卒業と同時に全員をそこに送り込む「新規学卒一括採用」という特殊な制度が、戦後復興や高度経済成長やバブル経済を支えた。

 しかし九五年に転機が訪れた。バブル経済崩壊後の長引く不況を受けて、日経連は「新時代の『日本的経営』」を発表し、終身雇用適用者を大幅に減らして、柔軟雇用型、つまりパートや派遣など使い捨てにできる労働者を大量に活用する方針を打ち出した。これ以降、フリーターが激増する一方で、絞り込まれた終身雇用適用者はいっそう「降りられないレール」にしがみつくハメになった。

 そして二〇〇一年からの小泉内閣が建前とする「新自由主義」の政策を本格的に進め、大企業を守って弱者を切り捨てて、貧富の格差を広げた。新自由主義はすでに国境を越えて世界中で同じような格差・貧困問題を生んでいて、日本人が海外の安い労働力と競争させられる事態も招いた。

 ここに至って非正規雇用者の「生存」が危ぶまれてきた。終身雇用を支持する人は八六パーセントにも上っている(註)。今や「個人の自由」は「新自由主義」にすっかり取り込まれてしまって、強調すべきではないとさえ思える。

 九〇年代後半にフリーターが急増した理由については、企業の側が正社員の数を絞ったことと、若者が会社人間を拒否して「自由な生き方」を求めたという二つの側面から論じられているが、結局両方の原因が重なっていると見るのが妥当だろう。もちろん最大の原因は前者だが、後者の意味も考えておかないと、また景気が回復して企業が儲かればいいんだというだけの話になってしまう(学校では「不登校」という形でレールから降りる人がこの時期に増えているのだ)。

 第二次大戦中に、自由主義社会におけるファシズムの台頭という驚くべき現象を目の当たりにして刊行された古くて新しい本、E・フロムの『自由からの逃走』によれば、近代化以降の社会では「自由」と「安定」は対立する概念だった。個人は自由になると同時に伝統的な絆を失って孤立し、「不安」な存在になった。そしてこれまでにも安心できる「帰属先」を求めて、権威主義や破壊性への逃避など様々な形での“自由からの逃走”が起きてきたのだ。

 それにしても、使い捨てられ食べていけない「自由」か、死にたくなるような会社の奴隷としての「安定」かしか選べないなんて、おかしくないか? すでに「不安定」で「不自由」な人も多いんじゃないのか? そして、結局は会社に帰属先を求めることになる、そんな極端な二者択一しかないのなら、そういうふうに仕向けている側が悪いのだ。我々の人生はなんと経済界の都合に翻弄されていることか。いっそのことその仕組みに頼らずに生きる方法はないのか?



 東京・高円寺の「素人の乱」は、単にデモや選挙活動やネットラジオを通じて金持ち連中に反抗し、“貧乏人の大反乱”を起こしているだけの若者集団ではない。リサイクルショップや食堂・カフェ、イベントスペースなどを通じて地域とつながり、そのなかでモノを回し共有すること、そして自治までも視野に入れている。大企業にも、もちろんグローバル経済にも何ら貢献せず、食い物にもされずに、地域や仲間という自らのなだらかなコミュニティを作って生きていく方法を選んでいる。ここでは企業とは別の帰属先が探られているようだ。それも含めて画期的なのだ。

 もちろんこれはひとつの例に過ぎないが、「自由」と「安定(あるいは生存)」は二者択一ではないはずだ。

 これ以上いらないものを作っては買わせたり、“開発”や建設を続けて経済を成長させるのは、エコロジストが言うまでもなくもう止めていくべきだし、どっちみち長くは続かない。長い目で見れば、今ある経済の仕組みに依存しないで生きる方法を探すべきなのだ。  とりあえずこの連載では、そんな経済界という“敵の術中”にはまらない生き方を模索していきたい。


(註)独立行政法人「労働政策研究・研究機構」の、二〇〇七年、二〇歳以上の男女四〇〇〇人を対象とした調査による。
つるみ・わたる/1964年東京都生まれ。フリーライター。第一作『完全自殺マニュアル』は100万部のミリオンセラーとなる。他の著書に『無気力製造工場』『人格改造マニュアル』『檻のなかのダンス』(いずれも太田出版)などがある。

tsurumi's text
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(PARC)

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